ギター上達コラム

       第84回 「肩の力を抜く」

 

ギターは、音量という面でかなりデリカシーを要する楽器である。その為「サロンの楽器」と言われたりする。大きな会場ではマイクが必要となる場合もあり、演奏者にとってそれはかなりストレスになる。マイクを繋ぐことで音質の均一化は避けられなくなり、心に描く微妙な音色の違いを表現しにくくなるからである。

 

会場の広さにもよるが、マイクなしに最大限にギターを響かせようとするあまり、演奏者は知らぬ間に肩に力が入ってしまう。結果、肘が張り心も柔軟性を失ってしまうことが多い。私自身、「肩の力を抜いて弾く」ことの大事さを要求しながらも、そのことを腹の底から実感できたのは最近のことである。

 

まず、「肩の力が抜けているかどうか」という感覚は、実感として掴みにくい。「今思うと、まだ力がはいっていたのだなあ」と言っていた自分が、何年か後には、「こうしてみると、まだ力が入っていたようだ」と言い、その数年後には、「まだまだ肩に力が入っていたことに気づかされた」と言う。「やっと肩の力が抜けるという感覚がつかめた!」と言えた時には、数十年もの歳月が流れていたことになる。最も、数年後にはまた、「やはり、まだまだ力が抜けていなかったのだなあ」などと言っているのかもしれない。それだけ力が抜けているかどうかの感覚は、自分では分かりにくいものだ。

 

とりあえずではあるが、現段階の話を進めることにしよう。

私の場合、左親指腱鞘炎という演奏家としてはかなり大きな代償を払うことでようやく、本当の意味で肩の力を抜くという感覚を掴むことができたように思う。新たな「宇宙奏法」の完成に向けて夢中になり過ぎ、左親指の腱鞘炎を起こしてしまったのである。怪我の状態は思ったよりひどく、ギターが正常に弾けない状態が3ヶ月間も続いた。力を入れようにも痛くて力が入らない。やれることと言えば軽くなぞる練習だけである。

 

接骨院に通いながら極力親指をかばう生活のなかで、ギターは出来る限りの脱力状態で練習することになる。そんなある日、ふっと心に不思議な感情が浮かんできた。

「こんなに軽く微かな音で弾いているのに、心に沁みてくるのはなぜなのだろう?」響かせようという意識は全くないのに弾いている音は心地よく潤い、豊かな情感を含んでしみじみと響いてくるのだ。メロディーを生かす音の強弱も緩急も、呼吸がつくる瞬間の間合いも自在で、胸に描いたイメージが曲想と重なり演奏を推進させていくという感覚。それはまるで、指で弾くというより曲に対するイメージに指がついてくるという感覚であった。

 

徹底脱力の練習は、身体のリラックスだけでなく心の脱力「心の力を抜く」にも大きく作用し、結果として「肩の力が抜けている演奏」に繋がっていたのだ。

「肩の力を抜いて自然体で弾く」という順番ではない。リラックスして「心の力を抜いたとき、自然に肩の力は抜けている」という逆転の思考であったのだ。「心の力を抜く」とは、演奏している自分自身の居場所が明確にイメージされているということでもある。

 

私は、これまで長い間、まるで逆の方向から攻めていたことになる。痛い思いはしたが、想定外の「宇宙奏法への超Big贈り物」を受け取ることになり今も興奮が止まらない。勿論、心の力を抜いて自然体で弾くためには相応の演奏技術が伴っていることが必須ではあるが、これを自分の演奏の血肉となるまで磨き上げるにはまだ幾つもの山を越えることになるのだろう。「越えた後の景色を見たい!」その一心が私を前へと突き動かす。

                                                                               2021.09.01

                                                  吉本光男