ギター上達コラム
「ジャック」
独自の演奏というものがある。若い頃に、セゴビアの演奏に「ジャック」された私は、長い間セゴビアの深い森から抜け出ることができなかった。クラッシックギター界の最高峰、セゴビアの演奏を生で聴いたとき魂が震えるほどの衝撃を受けた。そして、彼が奏でる音色への憧れはそれまで以上に激しく深まった。同時にそのことが、その後の私の演奏に立ちふさがる巨大な壁となっていく。
余りの苦しさに迷いが出ることも一度や二度ではなかった。壁は、それほど高く険しく目の前に立ちふさがっていた。しかし、その都度心の奥深くでつぶやく声が聴こえてきた。「人間が作りだしている技である以上それなりの理屈があるはずだ。セゴビアも人間なら、私もまた人間。セゴビア奏法の要を体得することが私にできないはずはない」
今思えば冷や汗が出るほどの思い方だが、若さゆえの一心不乱と真直ぐに道を求める心は、諦めるという選択肢を知らなかった。
一筋に「道」をいく者は、孤独だ。
闘うために「憧れ」の存在を必要とした。巨大な壁でもある「憧れ」を胸の内に住まわせたことで、追求のエネルギーが次第に増幅していく感覚もあった。「力(演奏技術)」を蓄えようと、試行錯誤の努力を重ね続けて今の私がいる。長い歳月、ギターを続けてきた意志の力も熱量も、「憧れ」との不断の格闘の中で培われてきたものである。「憧れ」と「壁」とは、切り離せない表と裏の関係にあったと言える。
正師としての「憧れ」を持つことが必要かどうか、私は知らない。人それぞれでいいと思っている。ただ、私にとっては、セゴビアという世界の巨匠を心に持ったことが半世紀以上ぶれることなくギター道を邁進する為のエネルギーとなっていたことは間違いない。そして今、聴く者の心を「ジャック」する程の演奏がしたいと願える段階にいる自分を実感できていることに、感慨深いものを感じる。
「胸躍る演奏」を目指し気づきを検証していく中で、深く納得したことがある。演奏技術が伴っていることが条件ではあっても、「呼吸」が独自性を作っていくということだ。新しい奏法(「クラウド奏法」と名付けた)が確実になる程に、「呼吸」と共に自分らしさは際立ってくる。それは、描いた全体のイメージに添って放たれる打ち上げ花火に似ている。消えてしまう前に、次々に打ち上げられていく花火が夜空を染めていくように自身の脳裏で躍動する曲のイメージが、細部に影響し合いながら自分らしさを創りあげていくのだ。
最近は、クラウド奏法が織りなすギター演奏の可能性に大きな手ごたえを感じている。ギターを愛し上達を目指す愛好家の方々にとって、独断的に書いているこのコラムは読みづらく疑問に思うことも有ろうかと思う。だが、行動のないところに上達はない。まずは、「できそうなことから」取り組んでみるといい。(2月号「上達コラム(胸躍る演奏を目指して)」を参照)何事もこつこつと、小さな積み重ねを厭わない心の強さが大を成していくものだ。
一歩一歩の中で自らが掴む気づきの連鎖は、あなたを更に上へと押し上げてくれることだろう。
己の中に生まれた気づきの直感を信じて深く掘り下げよう。曲は小さくても構わない。徹底的に弾き込む真摯な貴殿の足下に、求める真実は隠れている。
2021.04.01
吉本光男