ギター上達コラム

    第23回 「自由」と「コントロール」

 

 演奏するとき、囚われのない自由な心で音楽と向き合うことは大事なことだ。分かってはいても、それを体現することはなかなか難しい。

特に、ギター演奏においては6本の弦ですべての音域を表現するため、技術的な面で難しくなることが多く、楽曲を演奏することだけに追われてしまうということになりがちだ。

まさに、ギターを「心のままに」演奏できるようになるまでには、技術の面で幾つものハードルを越えなければならないというわけだ。

だから、基本の技術も身に付いていないのに「心のままに」というのは随分と無理な話なのだ。

 

 最も、私自身が演奏技術を徹底的に磨くことに集中してきただけに、

技術の方が先のような言い方になってしまっているが、音楽そのものに対する憧れや曲に寄せる心情、その時々の自分の感じ方、澄んだ感性がなければ音楽は成立しないというのもまた真実である。だが、どちらが先かを考えることは、「鶏と卵」の話に似ていて意味のないことだ。

織物の縦糸と横糸のように技術と感性とが同時進行で高め合い、支えあってこそ意味を持つ。

 

 さて、今回のコラムは「自由」と「コントロール」である。

【自由】心のままにあること。外的束縛や強制がないこと

【コントロール】制御すること。対象を目的の状態にするために、ちょ                     

うど良い具合に調整、統制、制御すること。

辞書で引くと、「自由」と「コントロール」は、相反する言葉のように思われる。しかし、よく考えてみれば分かることだが、演奏における2つの言葉は、車のおける「アクセル」と「ブレーキ」のように、どちらがなくても困る関係にある。音楽するということは、「どこまでも自由に舞いたがる心」を感じながら同時に「その激しい心を、良い具合に調整したり制御したりする心」をも抱え込んで演じる態度のことに他ならない。

 

 最近になってようやく、「自由をコントロールする」ことの機微がつかめたような気がしている。それは多分、「湧き上がる思い」に左右されない「力としての技術」を持てたことによるところが大きい。

その意味では、技術向上のための努力は終わりのない課題といえる。

「踊り踊りて あの世まで」と詠った歌舞伎役者のように、ギターを持ち続ける限り「瑞々しい感性」と「自由をコントロールする技術」を磨くための「熱」だけは最後まで失いたくないものだ。

                        2016.08.01

                                                                           吉本光男